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メンターとは、簡単にいえば「人生の師匠!」、仕事や人生において、良きお手本となってくれる人のことです。 身近に、メンターと呼べる人がいない場合、 本などから探しだすのもひとつの方法です。ここでは、メンターと呼ぶにふさわしい方々を紹介していきます!
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井深大(いぶか まさる)氏と共に、ソニーを創業された、盛田 昭夫氏も戦後の日本を代表する起業家、技術者のひとりです。

盛田 昭夫氏は、特に海外との取引に力を発揮されたようです。

主な著書

* 学歴無用論
* MADE IN JAPAN(下村満子、E・M・ラインゴールドと共著)
* 「No」と言える日本(石原慎太郎と共著)

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盛田 昭夫(もりた あきお、1921年1月26日 - 1999年10月3日)は、技術者、実業家、ソニー創業者の一人。

愛知県知多郡小鈴谷村(現・常滑市小鈴谷町)の造り酒屋に生まれる。旧制愛知第一中学校(現・愛知県立旭丘高等学校)、第八高等学校(現・名古屋大学)、大阪帝国大学理学部物理学科卒。

第二次世界大戦中、海軍技術中尉時代に技術研究会で井深大と知り合う。終戦後、1946年に井深大らとソニーの前身・東京通信工業を設立。1951年三省堂社長令嬢亀井良子と結婚。

1959年にソニー副社長、1971年に社長、1976年に会長就任。トランジスタラジオ、ウォークマンを世界に売り込む。また、家庭用ビデオ規格を巡り、 自社が率いるベータマックス陣営と、日本ビクター率いるVHS陣営との激しい争いを繰り広げた。

1986年には経団連副会長となる。

1989年には、『「NO」と言える日本──新日米関係の方策』を、石原慎太郎と共著、ミリオンセラーとなった。 その当時、日本企業がバブル景気の勢いに乗り、アメリカの歴史あるビルや不動産を買収していく様を、現地メディアが、「アメリカの魂を奪った」と批判したことを聞くにおよび、「アメリカ人はインディアンの魂(国土)を奪ったではないか」、と、一蹴したことは、余りにも有名なエピソードである。

ただし、『「NO」と言える日本』に対するアメリカ側の非難は、ほとんどが石原慎太郎の執筆部分についてであり、盛田昭夫の執筆部分については、アメリカ側としても納得できる内容が多かったと言われる。

技術者出身ながら、営業の第一線で活躍し、井深大とともにソニーを世界企業に育て上げ、井深の技術的発想を実現すること共に、ソニーの発展を第一として活動し続けた。

また、あまり知られてはいないが、彼の最大の能力は、資金調達にこそ見られる。松下などに比べ、その規模で、はるかに劣る当時のソニーが、技術開発の資金を調達することは、並大抵の努力ではなかったことは想像に難くない。しかし盛田は見事にそれをやりぬき、トリニトロン、ウォークマンの商品化を実現する。

私人としては、社交性に富み、非常に親しみやすい、と言われる反面、十数代続く造り酒屋の跡取りとして、厳格な一家の家長であったと言われている。

余談ではあるが、ソニー創業期の社員の給与は、盛田の実家の酒屋(盛田)から出ていたという逸話がある。それほど創業期は資金面において苦しかった模様である。また、銭形平次の原作者である野村胡堂(レコード評論家「野村あらえびす」としても有名)より出資を受けている。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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ソニー創業者の一人、井深大(いぶか まさる)氏は、本田技研工業創業者の本田宗一郎氏と並び、戦後の日本を代表する起業家、技術者であるといえます。

また、井深大氏は、教育活動にも熱心に取り組まれており、教育に関する著書も多数あります。

主な著書

「幼稚園では遅すぎる」
「0歳からの母親作戦」
「あと半分の教育」
「わが友本田宗一郎」

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•栃木県日光市に生まれる。
•神戸一中(現 兵庫県立神戸高等学校)卒。
•早稲田大学理工学部卒。
•学生時代の「走るネオン」という製品がパリ万国博覧会で金賞を獲得。戦時中の熱線誘導兵器開発中に盛田昭夫と知り合う。
•1946年 資本金19万円で、義父の前田多門(終戦直後に文相)が社長、井深が専務(技術担当)、盛田昭夫が 常務(営業担当)、社員20数人の東京通信工業(後のソニー)を創業。以来、新しい独自技術の開発にチャレンジし、一般消費者の生活を豊かに便利にする新 商品の提供を経営方針に活動を展開。そして、多くの日本初、世界初という革新的な商品をつくりだし、戦後日本経済の奇跡的な復興、急成長を象徴する世界的 な大企業に成長していく。
•1950年 テープレコーダーを発売。東京通信工業社長に就任。
•1955年 トランジスタラジオを発売。
•1958年 それまで商標名として使っていたSONYを正式な商号に採用してソニーと改称し、ブランド名と社名を統一した。
•1960年 トランジスタテレビを発売
•1965年 家庭用ビデオ・テープレコーダーを発売。
•1971年 ソニー会長に就任。
•1972年 国鉄理事、発明協会会長に就任。
•1976年 ソニー名誉会長に就任。
•1979年 日本オーディオ協会会長に就任。
•1987年 鉄道総合技術研究所会長に就任。
•1990年(平成2)ソニーファウンダー(創業者)・名誉会長に就任

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
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いわずと知れた、松下電器創業者、松下幸之助氏です。
たくさんの「松下語録」を残され、「人づくり」に力を注がれていました。今なお、多くの経営者の方々の目標とされているようです。

 主な著書
「PHPのことば」
 「道をひらく」
「続・道をひらく」
 「商売心得帖」
「経営心得帖」
 「指導者の条件」
 「社員心得帖」

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 有名な発言 有名な発言として「月給10万円の人は月100万円の働きを、月給20万円の 人は月200万円の働きをして欲しい」と語ったとされる。

また、「松下はどのような会社ですか?」という問に対し「松下電器は人を作る会社です。あわせて 家電を作っています」と答えた。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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松下幸之助氏の歩み
年齢 事項
明治27年 0歳 11月27日和歌山県で8人兄弟3男末っ子として出生
明治37年 9歳 小学校を4年で中退し、大阪の火鉢店に丁稚奉公
明治38年 10歳 五代(ごだい)自転車商会に奉公
明治43年 15歳 電気事業にあこがれ、大阪電灯(株)に入社
大正3年 19歳 肺尖(はいせん)カタルにかかる
大正4年 20歳 井植むめの(19歳)と結婚
大正6年 22歳 大阪電灯(株)を退社、事業を始める
大正7年 23歳 松下電気器具製作所を大阪市福島区大開町に設立
昭和4年 34歳 「綱領・信条」を制定
昭和7年 37歳 第1回創業記念式典を実施。事業の真使命を発表
昭和8年 38歳 事業部制を実施、大阪府門真に本社工場を移転
昭和20年 50歳 太平洋戦争終結
昭和21年 51歳 GHQより7つの制限を受ける
11月3日、PHP研究所を設立
昭和30年 60歳 所得番付1位(39年間でベスト10入り30回)
昭和36年 66歳 松下電器産業(株)社長を退任、会長に就任
PHP活動を再開(真々庵にて)
昭和48年 78歳 会長を退任し、相談役に就任
昭和55年 85歳 (財)松下政経塾開塾
平成元年 94歳 4月27日死去

松下資料館ホームページより

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